Tuesday 10 July 2012

"Better Together"キャンペーン始動

前回のエントリからだいぶ時間が空いてしまいましたが……

この間、まず大きな動きとしては、スコットランド独立反対派による"Better Together"キャンペーンが6月25日に始動したことが挙げられます。キャンペーンを主導するのは労働党ブラウン政権下で財務大臣を務めたアリスター・ダーリングですが、同じく独立反対の保守党と自由民主党からの支持を得ており、超党派の最大の反独立キャンペーンとなっています。

左から労働党ジョアン・ラモント、ダーリング、保守党ルース・デビッドソン、自民党ウィリー・レニー
Copyright © 2012 Herald Scotland
キャンペーンの立ち上げ演説で、ダーリング元大臣は「もし私たちが連合王国を離れることを決めたら、後戻りはできない」「行き先のわからないような片道切符を子供たちに与えることはできない」と述べ、連合王国下のスコットランドは独立スコットランドよりも経済的に安定することを示唆しました。

独立派の「イエス」キャンペーンがハリウッド俳優や詩人、ミュージシャンを呼んで華やかなイベントであったことに比べると、"Better Together"キャンペーンはそういった演出は一切なく、非常に控え目なキャンペーン立ち上げだったことが印象に残ります。いっぽう、キャンペーンのウェブサイトでは、合同維持派の一般スコットランド人のインタビュービデオが数多く掲載され、運動を担うのはあくまでも一般スコットランド人である、というキャンペーンの姿勢が看てとれます。

Be Positive

「イエス」キャンペーンとは異なり、これといって特に具体的なターゲットのないキャンペーンであるため、評価をすることがとても難しいのですが、キャンペーン全体では合同維持のポジティブな側面を強調し、「イエス」キャンペーンと対抗することを狙いとしているようです。合同維持派はかつて独立のネガティヴな側面を強調してきたのですが、それが投票者の不安を煽る"scaremongering"であると批判を浴びてきました。合同維持派がこうしたネガティブな議論を大きく転換させたのが3月のキャメロン首相のエディンバラでの演説からであり、"Better Together"キャンペーンもこのポジティブ路線を踏襲していると言ってよいでしょう。


「第三の道」?


キャンペーン立ち上げ後、とうぜんのことながら独立派からは批判がでていますが、その中でも大きなものは"Better Together"キャンペーンが具体的な権限移譲のビジョンを提示できていないというものです。以前からこのブログで取り上げているように、独立をめぐる住民投票では、独立だけではなく、スコットランドが連合王国に残りつつも更なる権限を付与される権限移譲プラスorマックスも選択肢になるのではないかと議論されています。ところがこうした権限移譲のオプションは、シンクタンクやメディアから出されたものであり、英政府や保守党、労働党からは、独立でも現状維持でもない「第三の道」としての更なる権限移譲の具体的な案は提示されていません。"Better Together"キャンペーンはこうした「第三の道」を提示することを目標としておらず、誰の責任で提示されるのかも不明なままです。

最新の世論調査では、独立への支持が30%、合同維持への支持が50%というデータが出て、国民の意見は合同維持に傾きつつありますが、いっぽうでスコットランドと連合王国の権限に関しては、現状維持への支持は29%、さらなる権限移譲への支持が37%となっています。現状維持、さらなる権限移譲、独立という3つの選択肢で考えた場合、さらなる権限移譲がもっとも高い支持を得ているということになります。独立支持派と合同維持派がともに大規模なキャンペーンを立ち上げましたが、現状でありうる3つの選択肢のうちの2つ――さらなる権限移譲と独立――の具体的な様相はいまだに見えておらず、今後の世論の動きとともに、両陣営がどのタイミングで一歩踏み出し、具体的なビジョンを呈示するのでしょうか。

Monday 28 May 2012

「イエス」キャンペーン始動

5月25日、先週の金曜になりますが、スコットランド独立を目指した「イエス」キャンペーンが始動し、その記念式典がエディンバラのCineworldという(うちの近所の)シネマコンプレックスで開かれました。

Copyright © 2012 Reuter

・「史上最大の草の根運動」

「イエス」キャンペーンは、2014年に開催を予定されている住民投票に向けて立ち上げられたもので、SNPだけではなく独立に賛成している緑の党、そして政治家だけではなく俳優や詩人、ミュージシャンなど、さまざまな分野で活躍する著名人も加わった大規模な運動です。スコットランド史上最大の草の根活動、という謳い文句を持っています。サモンド首相も式典の演説で強調したように、主役は政治家ではなく一般のスコットランド人であり、こうした政治的なイベントとしては珍しく映画館を選んだのも、映画館は一般の人たちが集う場所であり、この運動の一般人が主役であるという狙いと特徴を表すためだと説明されています。運動を主導しているのがSNPなのは言うまでもありませんが、式典には緑の党の党首パトリック・ハーヴィ、元BBC Scotlandの報道ディレクターブレア・ジェンキンス、ハリウッド俳優のアラン・カミングブライアン・コックス、ケン・ローチ監督のSweet Sixteenで主役の16才少年リアムを熱演したマーティン・コムストンなどが集い、またSNP支持で有名なショーン・コネリーのメッセージも寄せられました(主要な著名人の賛同者はこちら)。

・100万人のイエス

このキャンペーンの最大の目標は、2014年の住民投票までに100万の「イエス宣言」署名を集めることです。サモンド首相によれば、この目標が達成されれば、スコットランド独立は実現するとされています。スコットランドの人口は520万人ほどなので、もしこの目標が達成されれば、住民投票で独立賛成が50%を上回る確率はかなり高くなると言っていいでしょう。

イエス宣言に最初の署名をするサモンド首相
Copyright © 2012 BBC

・時期尚早?

メディアで挙げられたいくつかの懐疑的な反応には、「キャンペーン開始の時期が早すぎる」、「独立にイエスと言うが、独立は何を意味するのか?」といったものがありました。開始の時期が早いという批判についてはたしかに一理ありますが、住民投票までの2年半という期間をどのように使うのか、SNPの戦略に注目と言ったところでしょうか。現時点では、独立をめぐる論争にはふたつの見解があると見ていいと思います。ひとつは、独立が何を意味するのか、何をもたらすのか、また独立しない場合にどういったオプションがありうるのか、といった議論が出尽くしておらず、国民が熟慮の上で選択をするにはまだ時間が必要だ、という見解です。もうひとつは、すでに人々は独立反対か賛成かは決めており、これ以上時間をかける必要なない、という見解です。前者の立場は独立賛成派、後者は反対派に多くみられると言ってよいかもしれません。

世論調査によると、現状では独立賛成派が約3割、反対派が約5割と、SNPにとって逆風の状況が続いていると言っていいでしょう(先週公表された調査によると、独立賛成派は33%、反対派は57%となっています)。SNPとしては住民投票までに残された時間をうまく活用し、なんとか風向きを変えたいところです。「イエス」キャンペーンはその戦略のひとつですが、このキャンペーンを通じてSNPがどのように世論を動かそうとするのでしょうか。いっぽう独立反対派は、来月中にも「合同維持キャンペーン」を開始するとされており、両陣営の住民投票に向けた政治活動がいよいよ本格化してきたと言えそうです。

Thursday 10 May 2012

ミスか偏向か

5月3日のスコットランド地方選挙の結果についてですが、先日の記事で数字が大きく間違っていたので訂正します。 前回は獲得議席数と増減を以下のように示しましたが、


これはBBCの選挙速報に基づいた数字でした。しかし発表直後からこの数字の問題点が指摘され始めました。問題とは、イギリスでは通常、議席の増減は、当該の選挙とその前回の選挙の2つの選挙の結果を比較して算出するのですが、このBBCの議席増減は、2つの選挙結果の比較ではなく、現職議員と今回当選した議員との比較で算出していました

何が問題なのでしょうか? たとえば、ある政党が選挙で100議席を獲得し、4年後の選挙で議席を60に減らしたとします。その場合議席は40減となるのですが、もし4年のあいだに離党したり個人的事情などで辞職した議員が20人いて、選挙時には現職が80だとすると、選挙結果との差は40減ではなく20減になります。この2つの結果でどちらがより民意を反映していると言えるでしょうか。4年間の間の離党や辞職は選挙とは関係ないので、民意は反映されておらず、2つの選挙の結果のみを比べた40減の方が、より民主主義を反映した結果と言えるでしょう。現職との比較の場合、民意の変化の大きさが過小評価され、選挙結果の持つメッセージが正しく伝わらない可能性があります。今回BBCが採用した算出方法がこの方法だったわけです。

いっぽう、イギリスの慣例に従った2つの選挙の比較でみてみると、議席の増減は以下のようになります。


BBCの結果では労働党が僅差でSNPを上回ったのですが、見ての通りSNPが61増、労働党が46増と、SNPの躍進がより際立ちます。それだけではなく、自民党と保守党の議席減も大きくなり、特に自民党は100に近い議席を失うなど、危機的な結果であったことがわかります。

・ミス? 偏向?

まずこのサイトでBBCをソースにした数字のみを紹介したことについて謝りたいと思います。申し訳ありませんでした。じっさい今回のBBCの算出方法はふつうではなく、スコットランドの他のテレビ局(Scottish Television、通称STV)や一般のコメンテーターなどは慣例どおりの議席増減の算出方法をしています。BBCは他の選挙では慣例通りの算出方法をしていますし、BBCには政治部門のアナリストがいますので、単なるミスであったことは考えづらいでしょう。

BBCは選挙結果が判明した直後、サモンド首相にインタヴューを行いました。そのなかでサモンド首相は「SNPが最多の議席を獲得し、議席が増加した分も最大だった」とコメントをしたのですが、BBCは「サモンド首相、SNPの議席増は他の党よりも多かったと発言」とタイトルをつけたビデオクリップをアップロードしました(クリップのタイトルは今では変えられています)。BBCによる算出方法ではSNPの議席増は57、労働党が58なので、BBCの結果しか見ていない人がこのビデオを見た場合、「サモンドは何を言っているんだ? SNPの選挙結果を誇張しているのか?」という印象を抱きかねません。

「サモンド首相、(SNPの)議席増は最大と発言」とタイトルを打ったクリップ

BBCが慣例に従わない算出方法をしたのはなぜだったのでしょう。単なる気まぐれか、ミスか、あるいは意図的に数字を操作し、SNP勝利の印象を薄めたかったのでしょうか? じっさい、SNP支持者のあいだではそのように受け止められていますし、そうした疑念が生じるのも無理はありません。いっぽうBBCは公式声明を出しておらず、サイトでの選挙結果も変えていないので、真相は不明のままです。

Saturday 5 May 2012

ツイッターはじめました。

ツイッターを実験的に始めてみました。
https://twitter.com/#!/dokuritsujijo

うまくいくかどうか様子を見てみましょう。

Friday 4 May 2012

2012年スコットランド地方選挙

エディンバラの投票所の様子

5月3日にスコットランド地方選挙が行われました。全国にある32の地方議会の1200を超える議席が争われました。前回の地方選挙は2007年に行われ、以下のような結果が出ていました。


SNP、労働党、自由民主党、保守党の4大政党が得票・議席の80%以上を占め、ひとつの党による多数派形成が難しい状況を作り出していました。

・2007年からの変化

この2007年の地方選挙から5年が経ち、英政府は労働党政権から保守党と自由民主党による連立政権に代わり、スコットランド政府はSNPの少数政権からSNPの単独多数派政権になりました。今回は国政ではなく地方選挙なので、主要な争点は各都市各地方の個別的な問題になります(たとえばエディンバラではトラム(路面電車)をめぐる市議会の迷走、グラスゴウでは多数派を形成する労働党市議会議員のあいつぐスキャンダル、自由民主党と保守党が多数派のアバディーンでは新市庁舎をめぐるお金の問題など)。

またこうした地方独自の争点に影響を与えるのが国政レベルの政治動向です。まずイギリス全体でみると、連立内閣への批判が高まってきており、保守党と自民党は議席を大きく減らすことが予想されていました。イングランドでは保守党と自民党への批判票はまるまる労働党がいただくことになるのですが、スコットランドではそれをSNPと労働党で取り合うことになります。じつはSNPと労働党は経済・社会福祉政策的にはほとんど変わりはないので、SNPと労働党の争点はいうまでもなく独立問題になるわけです。SNPとしては、この地方選挙で労働党を大きく上回り、独立を問う住民投票に向けて弾みをつけたいところです。労働党としては、保守党と自民党の支持層は反独立ですから、その票が流れるのはSNPではなく労働党であることが期待できるので、SNPを出し抜いて地方選挙の第一党に躍り出たいところです。

はたして、2012年の地方選挙の結果は以下のようになりました。


見ての通り、自由民主党が80減と大きく議席を減らし、また保守党も16減と、英政権への批判をもろに受ける形になりました。それを奪い合ったのがSNPと労働党でしたが、前者が57増、後者が58増と、ほぼ互角。どちらとも成功・勝利に値すると言えますが、会心の勝利、と言うわけにはいきませんでした。

細かく見ていくと、相次ぐスキャンダルで労働党への支持が落ち込んでいたグラスゴウ市議会では、SNPが総力を結集して選挙に臨んだと言われていますが、労働党がSNPの挑戦を退け、多数派を維持しました。グラスゴウとその周辺はもともと労働党への支持が非常に強く、労働党からすると、この地域を失うことは党の存在の基軸が揺らぐほどのダメージになります。いっぽうSNPからすると、グラスゴウを取ることで労働党にたいする完全な優位を示すことができるので、なんとかして労働党支配を切り崩したかったのですが、今回は労働党がふんばった模様です。

いっぽうSNPはもともと労働党の影響力が強かったダンディー市で多数派を形成し、またダンディー郊外のアンガスでも勝利を収め、地方議会ではじめて多数派を形成することに成功しました。SNPはいまでこそスコットランド議会で多数派を形成していますが、2003年の地方議会選挙の時には獲得議席数は180あまりで、当時500を超える議席数を誇った労働党の対抗勢力にはなりえませんでした。国政レベルでも地方政治レベルでも、SNPが多数派を形成できるようになったのはここ最近の出来事なのです。

・二大政党制へ拍車?

この10年のスコットランド政治をかんたんにまとめると、労働党の影響力低下とSNPの躍進、となるでしょう。地方選挙の結果にもそれは顕著に表れています。

保守党の影響力も年々弱まってきているいっぽう、自民党は存在感を維持することが課題となってきています。自民党は、英議会レベルでは労働党と保守党の二大政党制を切り崩す第三党として力をつけてきましたが、政策的に大きく異なる保守党と連立内閣を組んだことにより、そのアイデンティティを失い、支持層が離れてしまいました。保守党の支持がスコットランドで伸びることは今後まずないことを考えると、自民党の存在感低下により、スコットランド政治がSNPと労働党による二大政党制に向かいつつある可能性を、今回の地方選挙は示唆したと言えるでしょう。

しかし話はそう単純ではなく、上の選挙結果の表でも見たように、全国で32ある地方議会のうち、ひとつの政党が単独多数を形成するのはわずかに9議会にすぎません。残りの23の地方議会では、政党同士の連立で多数派を形成しているのです。こうした現状を生んでいるのは、多数派形成を難しくするスコットランドの選挙システムなのですが、これについてはまた後で解説することにしましょう。

Thursday 3 May 2012

スコットランド法(2012)成立

スコットランド法(2012)の表紙

2010年に英議会に提出され、庶民院と貴族院それぞれを通過していたスコットランド法案(Scotland Bill)が、エリザベス2世の裁可を得、スコットランド法(2012)として成立しました。

・コールマン委員会とスコットランド法

スコットランド法案はもともと、スコットランドの権限委譲(Devolution)の現状を調査し把握するために2007年に設立された委員会、通称コールマン委員会の詳細な報告を元に作成されました。コールマン委員会は、2009年の最終報告において、権限委譲を肯定的に評価し、スコットランド議会はスコットランドの政治生活の中心として確固たる地位を得た、と分析しました。いっぽう、スコットランド議会のアカウンタビリティ、特に歳入面での責任に欠けるとし、英政府はさらなる財政権限をスコットランド議会に与えるべきだ、と結論付けました。

具体的にいうと、スコットランド政府に歳入面での権限はなく、英政府から付与される補助金が財源なのですが、スコットランド法案は以下の変化(主要なもの)を盛り込みました。

  • スコットランド政府はスコットランドの所得税の半分を歳入とする
  • スコットランド政府はスコットランドの土地税・埋め立て地税・印紙税を歳入とする
  • 英政府からスコットランド政府への補助金の額を減少する
  • スコットランド政府は速度規制・飲酒運転規制・エアガン規制等について、スコットランド独自の規制が可能になる

これらの変化が実際に起こるのは早くても2015年くらいだろうと言われています。

・変化の早さ

このスコットランド法は、昨今の独立をめぐる議論の中で、あまり注目を浴びてきませんでした。前回のエントリでまとめた完全な独立と、それについてのオプションである権限委譲プラス、あるいはマックスに比べると、やはり地味というか、注目を浴びてないのは無理のないことかもしれません。権限委譲プラスは北海油田の地理的シェア、マックスは収益のすべてをスコットランド政府に与えることを考えると、スコットランド法は限りなく現状維持に近いといえます。この法案のもとになったコールマン委員会報告が作られた2009年には、北海油田での収入をめぐる議論はここまで具体的ではありませんでしたから、スコットランド法が地味に見えるということ自体が、この3年間の変化の大きさを示唆しています。この独立問題をめぐる状況の変化をもたらしたのは、2011年5月の選挙でのSNPの大勝であるとみてよいでしょう。

ちなみに今日(5月3日)はこちらでは市議会選挙の日なのですが、この結果が独立問題をめぐる状況に影響を与えることも必至といえます。開票は明日なので、結果が出てからその分析をしてみましょう。

Tuesday 6 March 2012

プラス?マックス?

キャメロン首相の独立問題をめぐる発言からほぼ2か月がたち、スコットランドの将来がどのような形になりうるのか、だいたいのオプションが見えてきました。サモンド首相およびSNPはスコットランドの独立を目指しています。キャメロン首相はじめ保守党、労働党、自由民主党(Lib-Dem)は独立に反対しています。

独立反対派には、スコットランドと連合王国の関係をどのように保つのかについて意見の違い、つまり現状をそのまま維持するのか、さらなる権限移譲を目指すのかについての違いがあります。伝統的に権限移譲を推し進めてきたのは労働党で、保守党は以前は権限移譲反対でしたが、キャメロン首相のスピーチに示されたように、ここにきて権限移譲に前向きな姿勢を示し始めました。とはいえ、反対派の中ではまだコンセンサスはとれていないようです。さらに、SNPもさらなる権限移譲については反対というわけではなく、独立をめぐる住民投票でさらなる権限移譲を問うことについて今のところはオープンな姿勢を保っています。現状維持でもなく独立でもない、独立反対派と賛成派の両方から支持を集めるさらなる権限移譲が、スコットランド独立問題の第三の選択肢として活発に議論されてきているのです。

・権限移譲のオプション

権限移譲をどのように推進するのかについては、スコットランドのシンクタンクなどが積極的に発言をしており、現状では「権限移譲プラス(devolution plus = devo-plus)」と「権限移譲マックス(maximum devolution = devo-max)」が提示されています。基本的には権限移譲とは、連合王国の枠組みを維持することを前提としたうえでの財政権限の問題であり、現状はどの程度、英政府がスコットランド政府に財政権限を拡大して与えるか、が焦点となっています。現状維持、権限移譲プラス、権限移譲マックス、スコットランド独立の財政権限を簡単に比較すると、以下のようになります。



・スコットランド法案

現在スコットランド政府は、財政関連の権限を全く持たず、歳入・歳出ともにロンドンの英政府に依存しています。また軍事・外交についても同様です。これは1997-9年に時の労働党政府主導でスコットランドに権限移譲がなされたときの取り決めで、現在も変わっていません。しかし権限移譲から10年たった2007年に、権限移譲の現状を検討するためにコールマン委員会と呼ばれる委員会が設置され、その報告をもとに2010年英政府が「スコットランド法案」を提出し、現在法案が英議会で審議されています。スコットランド法案は、基本的にはスコットランド政府の財政権限拡大を推進する方針で、所得税の半分と公債の発行権などを与えることが法案には盛り込まれています。

・権限移譲マックス

権限移譲マックスとは、昨年5月にスコットランド議会の選挙でSNPが大勝し、スコットランド独立を問う住民投票が現実味を帯びてきてから、メディアで使われるようになった言葉です。正確な時期はわからないのですが、だいたい2010年の10月くらいには広まっていたように記憶しています。スコットランド独立には反対でも、権限移譲には賛成する労働党や自由民主党周辺から出てきたオプションでした。言葉の通り権限移譲を最大限まで推し進めるもので、外交と軍事を除くすべての権限をスコットランド政府に与えるというものです。

・権限移譲プラス

権限移譲プラスは、権限移譲マックスと現状維持のほぼ中間に位置する考えで、スコットランドのシンクタンク「リフォーム・スコットランド」が中心になって推進してきているオプションです。このオプションでは、スコットランド政府は、所得税と法人税および北海油田の地理的シェア(約80-90%)など、スコットランド法案よりも多くの財政権限を与えられることになっています。権限移譲プラスはここ数週間で多くの支持を集めており、SNPも住民投票に権限移譲の問いを入れることになった場合には、権限移譲プラスを採用することに積極的です。

・権限移譲か独立か

現状、特にキャメロン首相の2月16日のスピーチ以降は、英政府がさらなる権限移譲にむけた交換条件を呈示したため、権限移譲がどのように行われるのか、にメディアの関心は集中しているようです。権限移譲プラス、マックスを含めて様々な議論が交わされてきており、このエントリでまとめたように、それぞれのオプションが具体的に提示されてきています。こうした権限移譲に対する関心の高まりの中、「スコットランド独立が何を意味するのか」の議論が後景に退いた観があります。

「独立後のスコットランドはどのような国になるのか?」という問いは、1月に独立をめぐる議論が本格化して以来、サモンド首相が具体的な説明を求められていた課題でした。サモンド首相とSNPは、独立反対派からの独立後の軍事や経済についての具体性を求めた追及に対して、やや押されていた観がありましたが、ここにきて議論の中心が権限移譲に移ったことで、風向きが変わってきています。この変化がサモンド首相に有利に働くのか、それともキャンベル首相の後押しをするのか、まだ判断を下すことは難しそうです。

Thursday 1 March 2012

方向転換

前回のエントリからしばらく間が空いてしまいましたが、その間、2月16日にキャメロン英首相がエディンバラを訪問しました。英政府の方針として、キャメロン首相はスコットランド政府との交渉の席には直接つかないことが決定されていたため、キャメロン首相とサモンド首相は会談したものの、両者の間では独立をめぐる議論は行われませんでした。ただ、キャメロン首相は独立問題についてのスピーチを行い、それが大きな反響を呼びました。

Copyright © 2012 BBC



・キャメロン首相の「取引」

スピーチの骨子は、独立をめぐる投票でスコットランド人が独立反対を選んで連合王国に残った場合、英政府としてさらなる権限移譲(devolution)を考慮する、というものでした。これは、それ以前のキャメロン首相のスコットランド独立および権限移譲についての発言を考えると、非常に大きな変化と言えます。以前は、キャメロン首相はさらなる権限移譲、特にスコットランド政府が財政面で自律的になることに反対であり、そもそも独立をめぐる投票についても、英政府が主導権を握り、英政府が許可を与えてのみ投票を認める、という立場でした。これまでの強硬な反独立の姿勢を緩め、スコットランド人に対して一種の取引,つまり独立反対と引き換えにさらなる権限移譲を認める、という交換条件を提示したのです。

それだけではなく、このスピーチでキャメロン首相は独立後のスコットランドについて肯定的な見解を述べました。曰く、スコットランドは独立後も経済的に自立できるし、独立国としてやっていけるでしょう。ただし、スコットランドが連合王国から分離するのは非常に残念なことだし、そもそもスコットランドもイングランドも連合王国のままでいたほうがより豊かで力強い国でいられるのです、と論じました。これも非常に大きな変化と言えます。キャメロン首相はじめ独立反対派はこれまで、独立後のスコットランドは経済的に不安定になり、自立してやっていくことは不可能である、したがってスコットランドは独立するべきではない、という論を張っていたからです。さらなる権限移譲という交換条件の提示、そして独立スコットランドに対する肯定的な評価-どうやらキャメロン首相は強硬反対路線を捨て、懐柔路線に出たようです。

・"Where's the beef?"

これに対しサモンド首相は、もし提案が真摯なものなら、キャメロン首相は当然ながら「さらなる権限移譲」が何を意味するのか、ただちに明確にすべきである、と揶揄しました。美味しいお肉がありますよ、あなたのものですよ、と言っているのに、じっさいの肉は見せないままじゃないか、と皮肉って、サモンド首相は「で、肝心のお肉はどこに?」と発言したようです。じっさい現在英政府が提出中の「スコットランド法案(Scotland Bill)」(10年以上経過した権限移譲の現状を考慮し、スコットランド政府のもつ権限を調整するための法案。また解説します)においては、スコットランド政府の権限を若干ですが削減することが提案されているのです。

サモンド首相の揶揄はもっともですが、キャメロン首相のスピーチは、私の見たところでは、独立問題についての議論の方向性を変えたように思われます。メディアでの議論はこのスピーチ以来、独立か否かではなく、権限移譲がどのようになるのか、に移りつつあります。また、「なかなかいいスピーチだったじゃないか」とキャメロン首相の方針変換に好印象を持った人も少なくないようです。キャメロン首相のスコットランドでの不人気ぶりを考えると、これはたいへん大きな変化と言えるでしょう。

こうした中、権限移譲こそが最善の選択である、というキャンペーンを始めたスコットランドのシンク・タンクもあり、今後しばらくは、独立か否かではなく、権限移譲がどのように行われるのか、という方向に議論が進んでいくかもしれません。

Monday 13 February 2012

一歩前進?

今日2月13日、エディンバラで、かねてから予定されていた、独立をめぐる住民投票についてのスコットランド-英政府間の会談が行われました。

Copyright © 2012 PA

スコットランド政府からサモンド首相(左)、英政府からマイケル・ムーア大臣(右)が出席したこの会議は、1月にキャメロン英首相が独立問題論争の口火を切って以来、最初のトップレベルでの折衝で、前回のエントリでまとめた両政府の住民投票をめぐる立場の違いを解消することを狙いとしていました。

会談後、サモンド首相は「わずかながらも前進が見られた」と述べ、一定の評価を与えました。報道によると、選挙の時期と選挙委員会の役割という点では大まかな合意を得られた、とサモンド首相は考えているようです。いっぽう投票の年齢制限と投票の問いについてはいまだに意見の相違があるとサモンド首相は認めています。

面白いのは、サモンド首相の意見とは異なり、ムーア大臣は選挙の時期についてはまだ合意に達していないと述べている点です。ムーア大臣は英政府の主張どおり、投票時期を「遅くよりも早く(sooner rather than later)」考えており、サモンド首相の計画である2014年秋の住民投票実施には必ずしも賛成していません。このように早くも会談の結果の解釈に食い違いが生じており、双方の駆け引きの激しさを予想させます。どちらの側も、選挙開催の時期についてはメディアを利用して、既成事実的に世論を作り上げようという意図があるのではないかと思われます。

ひとつ明らかなことは、まだまだ両政府間の齟齬は非常に大きいため、今後もトップレベルでの折衝が必要になるだろうということです。交渉の中で、どちらがどの点で譲歩し、またどの点で主張を貫くのか、先が読めませんが、問題をすべて解決するのは簡単ではなさそうです。ちなみに今週木曜にサモンド首相とキャメロン首相の会談が予定されていましたが、会談はキャメロン首相の側からキャンセルされ、英政府は今後もムーア大臣をスコットランド担当大臣としてサモンド首相との折衝に当たらせるとの報道がありました。SNPは議題の重要さから考えて、ムーア大臣では不十分であると述べ、キャメロン首相との会談を要求しているということです。

Friday 3 February 2012

Do you agree?

スコットランド政府が独立を問う住民投票に関する意見書を公表してから1週間が経ちました。先週予定されていたサモンド首相と、英政府のスコットランド担当大臣マイケル・ムーアの会見は、ムーア大臣が水疱瘡にかかってしまったため延期になりました。今週になりムーア大臣の病状が快復し、会見は13日にエディンバラで開かれることが決定しました。スコットランド政府と英政府の主張の食い違いはこれまでに見ましたが、確認しておくと以下のようになります。



これらの食い違いを一度の会見で解決に導くことは不可能に近く、交渉は長引くことが予想されますが、両者の政治的駆け引きの手腕に注目、といったところでしょうか。

・フェアな問い?

先週の意見書の公表から、各メディアでは意見書をめぐってさまざまな議論が両陣営から展開されましたが、主要な議論のひとつが、問いの文言をめぐってのものでした。前回見たように、スコットランド政府は住民投票の問いを「あなたはスコットランドが独立国となることに賛成しますか?(Do you agree that Scotland should be an independent country?)」としたわけですが、この問いについて、マーケティングや心理学の専門家は「フェアではない」「バイアスがかかっている」という主張をしました。

曰く、さまざまな調査において、「~に賛成しますか?(Do you agree ~)」という問いをすると、「~に賛成しませんか?(Don't you agree ~)」という問いをした場合に比べて、数パーセントの違いがでるとのこと。一般的にひとびとは肯定的、イエス、という答えを選びたくなる傾向があるため、問いの内容にかかわらず、肯定的なDo you agreeの場合のほうが、否定的なDon't you agreeに比べて支持を得やすいらしいのです。そのため、マーケティングや大規模な調査で正確な情報を得たい場合、「賛成ですか、反対ですか(Do you agree or disagree)という両論表記でいくことがふつうとされています。一方、SNPの議員や独立賛成派のメディアはこの問いは短く、明確で公平である、と述べています。

この問いが短く明確であることは一目瞭然ですが、私の個人的な感想としては、これはかなり念入りに作られているなぁと思いました。これは他にも問いの設定がありえたことを考えるとよくわかります。住民投票はスコットランド独立に関する問いなので、たとえば「あなたはスコットランドが連合王国から分離することに賛成しますか(Do you agree that Scotland should be separate from the United Kingdom?)」のような問いも不可能ではないわけです。しかしこのように独立を分離、あるいは連合王国解体とみる問いには、否定的な要素が少なからずあるため、支持が集まりにくいことが予想されます。

・分離か自立か

サモンド首相としては、独立の問いは連合王国に関係なく、スコットランドの問いであり、スコットランドが自立すること、スコットランド人が自分たちで自分たちの将来を決めることである、というポジティヴな問いを投げかけたいのでしょう。実際、サモンド首相は先週、「スコットランドの独立後も連合王国は維持されるでしょう」と述べ、それは独立後のスコットランドが連合王国の一部であり続けることか、と問われると、「政治的独立の話をしているのに、連合した王国(united kingdoms)の話をして、問題を混乱させるのはやめたほうがいいでしょうね」とはぐらかしました。他のインタヴューではスコットランド独立後も「社会的な合同(social union)は保たれます」と述べています。スコットランド独立を、連合王国からの分離、という風に解釈されたくないサモンド首相の意図が見え隠れします。

Friday 27 January 2012

人物・用語解説

人物・用語解説を加えました。今後もいろいろと項目を加えていく予定です。

Wednesday 25 January 2012

バーンズ・サパーの日に

ハギスとバーンズ
今日1月25日はスコットランドの国民的詩人ロバート・バーンズ(1759-1796)の誕生日です。スコットランドのみならずアメリカ、カナダ、オーストラリア等世界各地で、ハギスを食べ、バーンズの詩を読み、ウィスキーを飲み、Auld Lang Syne(蛍の光のもととなる歌です)を歌ってバーンズの誕生を祝います。バーンズ・サパーと呼ばれるお祝いです。バーンズはスコットランド人独特の心情と歴史的感性を、英語ではなく英語の一方言であるスコットランド語で簡潔かつ直截的に表した詩作で知られ、いまではその詩作はスコットランド文化の不可欠な要素となっています。日本で言う石川啄木や宮沢賢治にあたるでしょうか。夭逝し、後世の名声に対して生存中は比較的不遇だったことも似ていると言えます。1月25日は多くのスコットランド人にとって、バーンズの詩作を通じて、自国の文化を称え、スコットランド人であることの意味を確認する日とも言えるでしょう。

この重要な日に、アレックス・サモンド首相はスコットランド議会で、独立を問う住民投票に関する意見書を公開しました。


Copyright © 2012 BBC


Your Scotland, Your Referendum『あなたのスコットランド、あなたの住民投票』というタイトルの122ページからなるこの意見書(このサイトから見れます)は、今月上旬から一気に加熱してきたスコットランド独立問題をめぐる論争において、主導権を握ろうとするスコットランド国民党(SNP)の試みと解釈してよいでしょう。この意見書は、2014年秋にスコットランド政府が計画している住民投票の詳細について述べたもので、専門家だけではなく一般からの意見を踏まえた上で、内容を調整し、その後スコットランド政府が2013年初頭の作成を計画している住民投票法につながるものです。

意見書の重要な論点は以下になります。

  1. 住民投票は「あなたはスコットランドが独立国となることに賛成しますか?(Do you agree that Scotland should be an independent country?)」とする。
  2. 住民投票は2014年の秋に行う。
  3. 投票は通常のスコットランド議会選挙と同様に行うが、年齢の下限を16・17才に引き下げる。
  4. 投票は英議会の選挙委員会の監督のもとで行う。

意見書の内容のほとんどが、これまでサモンド首相およびSNPが述べてきたことで、特に「サプライズ」はありません。ただし、1の投票の問いについては、サモンド首相は簡潔な一問一答(独立に賛成か反対か)となることを優先するとしたものの、1の問い以外に、さらなる権限委譲についての問いを加えるかどうかについては結論は出しませんでした。ここはSNPの苦しいところで、世論調査の結果によると、現段階では独立賛成は約4割程度なので、独立達成が確実とは言えません。独立への支持が2014年秋までに増えない場合SNPの敗北となるので、そうなった場合に、SNPは独立ではなく、さらなる権限移譲(maximum devolution、あるいは略してdevo-maxと呼ばれています)というオプションも残しておきたいのだと言われています。

2と3については以前にサモンド首相が提案した通り。16・17才に投票権を与えるのは、スコットランドの未来を背負うのは若い世代であり、住民投票がその層を含むのは当然だというのが理由として述べられています。いっぽうで独立賛成は年齢が若くなるほど多くなるというデータがあるので、その点でSNPに有利という側面も見逃せません。また4については、これはSNPが英政府に譲歩をしたもので、以前はサモンド首相はスコットランド政府が任命する独自の住民投票用の選挙委員会による監督を主張していました。

一方、かねてから問題になっているスコットランド議会の住民投票開催に関する法的権限については、SNPが従来主張しているとおりで、スコットランド議会は独立を問う住民投票を行う法的権限を持つと主張しています。英政府はこれとまったく異なる主張をしており、住民投票は英議会の認可がない限り違法であると述べています。これについてはまた後日解説しますが、両者の齟齬は簡単に埋められそうもありません。

この意見書を踏まえ、サモンド首相は今週英政府のスコットランド担当大臣と会談する予定です。サモンド首相とキャメロン首相との会談も来週に予定されています。

Tuesday 24 January 2012

2つの政府?(2) 連合王国と帝国


1707年にスコットランド議会はイングランド議会に吸収合併され、両国はKingdom of Great Britain、グレートブリテン王国として生まれ変わりました。しかしスコットランドの法、宗教、教育制度等はそのまま維持され、スコットランドは「半独立」とでも呼ぶべき状態になりました。1801年になるとグレートブリテン王国にアイルランド王国が加わりUnited Kingdom of Great Britain and Ireland、グレートブリテンおよびアイルランド連合王国が誕生します。その後1922年にはアイルランドがベルファストを含む北アイルランドを除いてアイルランド自由国として独立し、1927年には連合王国はUnited Kingdom of Great Britain and Northern Irelandとなります。

このように連合王国は20世紀初頭に大きく変貌するわけですが、スコットランドと連合王国の関係はと言うと、基本的には1707年の合同から全く変わらず、スコットランドは連合王国内で「半独立」の状態を維持し続けました。スコットランドは議員をロンドンの議会に送り、連合王国の植民地と貿易を展開するなど、政治的にも経済的にも連合王国の一部として機能し続け、ある面では、イングランドとスコットランドはひとつの国として統合を強めていったと言えるでしょう。

・連合王国と帝国

1707年の合同当時、スコットランドは国家財政の危機に瀕していました。海外進出や国内産業振興の失敗などの要因があるのですが、ここでは省きましょう。最近の研究では合同直前の1690年代の状況は特に厳しく、イングランドとの合同が想像しうる唯一の解決策であったと論じられています。実際、合同条約では、スコットランドとイングランドの植民地との自由貿易が確約されました。合同後の18世紀後半になると、期待されていた経済的効果が顕著になり、18世紀末から19世紀前半まで、スコットランドは急速な経済発展と産業化を果たしました。なかでもスコットランド第二の都市グラスゴウは、大西洋に面したその利点を生かし、18世紀には北米植民地との貿易で急速に発展し、また19世紀にはいわゆる産業革命の中心地のひとつとして、綿工業をはじめ製鉄、造船、鉄道などの産業で経済発展をリードしました。

またこうした経済的恩恵を受けるだけではなく、スコットランド人は行政や軍事面でも積極的に連合王国とイギリス帝国の発展に寄与しました。スコットランドは多くの人材を軍隊に送り込み、特に勇猛さで知られるスコットランドの高地地方、ハイランドと呼ばれる地域の出身者からなるハイランド連隊は、イギリスの軍隊でもひときわ優秀な部隊として名を馳せ、数多くの海外・植民地戦争で重要な役割を果たしたとされています。たとえば映画『シン・レッド・ライン』の原題はThin Red Line、直訳すると「薄い赤の線」ですが、この言葉は軍事用語で、横に広がって薄くなった防衛線のことを指します。この表現は、1854年のクリミア戦争でロシア軍と対峙したハイランド連隊の姿に由来します。数に勝るロシア軍騎馬隊の突撃を4列の陣をひいて受け止めたハイランド連隊の勇猛さは語り草となり、表現として定着したのです。軍事以外でも、イギリス帝国の先駆者となったスコットランド人は数多くいました。探検家として有名なリヴィングストンや、明治日本の近代化に大きな貢献をしたトマス・グラバーもスコットランド出身です。

ロシア軍騎馬隊と対峙するハイランド連隊
トマス・グラバーと長崎のグラバー邸
Copyright 
© 2008 Nagasaki historic city Cooperative Group

このように合同後のスコットランド人は、連合王国の発展に寄与し、イギリス帝国の臣民としてその拡大に貢献しました。その過程で、スコットランド人でありまたイギリス人(British)でもあるという二重の自己意識を育てていったことでしょう。またスコットランド人は時宜に応じて、「半独立」の国民としての立場をうまく活用していきました。時には独自の法、宗教、歴史を持つ「半独立」の国民として、イギリス連合王国内でイングランドとは異なる政策を求め、また時には連合王国と帝国の臣民、イギリス人として、イングランドとの対等な政策を求めました。この二重の自己意識は、国と国民意識の単位が一致するとされている現代の日本ではなかなか理解しづらいかもしれません。

・帝国の解体とヨーロッパ共同体

このスコットランド人の二重の自己意識は、第二次大戦終了に伴うイギリス帝国の解体と、ヨーロッパ共同体の誕生により大きく変化します。大戦後のアジア・アフリカ植民地諸国の独立によって、イギリス帝国はコモンウェルスあるいは英連邦と呼ばれる、より緩やかなつながりに基づく政体に生まれ変わりました。イギリス人は帝国を失う一方、ヨーロッパでは国家の単位を超える経済・軍事連合の枠組みが生まれ、のちのEU形成への長い道のりが始まりました。

スコットランド人から見ると、この状況はある意味で、自分たちの国民としての自己意識に再検討を迫るようなものであったでしょう。スコットランドは連合王国の一部として帝国の拡大に寄与し、その様々な恩恵を受けてきました。ある意味においては、帝国あっての連合王国、だったわけです。この前提が、帝国の解体に伴い意味を失い、また連合王国はヨーロッパ共同体の誕生に伴いその存在意義を変えつつありました。スコットランド人の意識が徐々に変わり始めたのがこの1960年代でした。1967年にはSNPの議員がイギリス議会に選出され、スコットランド独立と権限委譲が本格的に議論されるようになりました。

SNPは1970年代に躍進を遂げ、1979年3月の権限移譲の国民投票にこぎつけるのですが、その話はまた次回にしましょう。

Thursday 19 January 2012

2つの政府?(1) 歴史的背景


英国議会(左)とスコットランド議会(右)
Copyright © 2012 BBC

イギリスはひとつの国として存在するのに、なぜスコットランドに政府があるのでしょうか? なぜ政府があるのに独立しないのか、またなぜ政府があるのに独立を求める声があがるのでしょうか?

日本語のイギリスにあたる英語は存在しません。「イギリス」と聞いて多くの日本人が想像するのはユニオンジャックの英国だと思いますが、英語ではそれは国名としてのUnited Kingdom (UK)あるいはGreat Britainとなり、日本語の「イギリス」にあたるものはありません。英語のUKはイングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドからなる国で、恐らく多くの人はイギリスあるいは英国という言葉でそれをあらわすでしょう。

United Kingdom=イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランド
=連合王国≒英国orイギリス

ということですね(Wikipediaのイギリスの国名の欄が言葉の由来について比較的詳しく書いています)。このブログはスコットランドの独立について解説するので、以下では連合王国とスコットランドの歴史的関係について説明します。

・1603年の同君連合

イングランドとスコットランドは歴史的に別々の国で、国王、議会、宗教、法律などもそれぞれ異なっていました。中世にスコットランドはイングランドの支配下におかれますが、別のエントリで述べた13世紀末~14世紀初頭の独立戦争(メル・ギブソン主演の映画『ブレイブ・ハート』はそのハリウッド的解釈です)により、1320年にイングランド支配を脱しました。その後スコットランドは独立した王国としての立場を維持しますが、イングランドからたびたび侵略を受けます。16世紀にはイングランド国王ヘンリ8世がスコットランドを支配下に置こうと積極的な軍事・外交政策をとりますが、スコットランドはこれを退けました。

ところが1603年にイングランド王エリザベス1世が死去すると状況が一変します。エリザベス1世は子供がいなかったため、イングランドは後継者を探さなければならなかったのですが、それがたまたま、スコットランド国王であったジェイムズ6世だったわけです。イングランド議会はジェイムズ6世にイングランドの国王として即位することを要請し、ジェイムズ6世はこれを引き受け、イングランド国王ジェイムズ1世となりました。こうしてスコットランドはイングランドと国王ジェイムズを共有することになるのですが、それ以外はお互い別の国のまま、つまり国王だけ同じで、議会、宗教、法律は別々のままというよくわからない関係に入ることになりました。

ジェイムズ6世・1世

この状況は21世紀の私たちから見ればおかしいですが、当時は国は国王の持ち物と言う認識があったので、国王が死んだ場合には誰かがそれを相続し、その相続する人物がたまたま他の国も所有していたと言う状況は珍しくありませんでした。さらにこの時代は、宗教改革後でカトリックとプロテスタントが激しく争っていたため、後継者選びにも宗教対立が色濃く反映されていました。また医学が発展していなかったため、乳幼児死亡率が高く、国王が死んだ場合に次の後継者が遠く離れた家系にしか見つからない場合も多々ありました(世界史で学ぶハプスブルク家はこの時代に多くの国と地域を相続したわけですが、伝統的に多産で男子が多く生き残ったことも勢力拡大の要因の一つとされています)。こうした要因で、1603年にスコットランドとイングランドは国王を共有することになったのです。

・同君連合の難しさ

しかし国王ジェイムズにとって、両国を統治するのはなかなか面倒なことでした。長く続いた対立関係に加え、問題を難しくしたのは両国の宗教の違いです。両国はそれぞれプロテスタントですが宗派が異なり、イングランドはよりカトリックに近い主教主義、一方スコットランドはより厳格な長老主義を国教として採用していました。この違いは国王でもいかんともしがたく、ジェイムズの後継者も両国の宗教対立でたいへん苦労することになります。特にジェイムズの後を継いだチャールズ1世は、スコットランドでの宗教政策を誤ったため政治的混乱と反乱を引き起こし、ついには反乱軍に捕らえられて処刑されてしまいました。世界史で習うピューリタン革命のことですね。

17世紀の宗教対立は1688年の名誉革命でひとまず終結します。オランダから招聘されたオレンジ公ウィリアムはイングランド・スコットランド両国のプロテスタント国王として即位し、混乱に終止符が打たれました。ウィリアム3世の時代はヨーロッパでフランスをはじめとするカトリック勢力が強大になりプロテスタント陣営が劣勢に陥っていました。そのためウィリアムはイングランドとスコットランドをプロテスタント国としてひとつにまとめ、さらに国王として統治を容易にするため、両国の合同を提案しました。しかしウィリアムの提案は両国の政治家から反対にあい、実現することはありませんでした。

・1707年の合同

ウィリアムの死後即位したアン女王はウィリアムの遺志を継ぎ、両国の合同を提案しました。アン女王の時代にはヨーロッパ国際政治の状況の変化により、合同が政治家の間でより肯定的にとらえられたため、両国が合同に向けて本格的に動き出します。度重なる交渉の末、イングランドとスコットランドの議会は1706年に合同条約を取り交わしました。

合同条約は両国の力関係を反映してイングランド主導で進んだため、スコットランドの吸収合併=スコットランド議会の廃止が既定路線になりました。またスコットランドに対してはイングランドとの関税撤廃、イングランド植民地との貿易自由化、税制の統一など、主に経済面において好条件が提示されました。さらにスコットランドの宗教、法律、教育制度は保持するなど、議会の廃止以外は合同下のスコットランドは「半独立」とでもいうべき立場になりました。こうした条件のもと、両国議会は合同条約を批准し、1707年5月に合同が成立、スコットランドとイングランドが新しくKingdom of Great Britain=グレートブリテン王国、に生まれ変わりました。これが現在のUKの母体となります。

合同条約をスコットランド代表から受け取るアン女王
Copyright © 2012 Open Parliament Licence

制度的な変遷をまとめると、

1603年 イングランドとスコットランドが国王ジェイムズを共有=同君連合
     (両国は国王のみ共有)
1707年 イングランド議会がスコットランド議会を吸収合併=議会合同
     (スコットランドは法、宗教、教育等を維持→「半独立」)
     Kingdom of Great Britainが誕生
       →現在のUK(連合王国)の母体となる

となります。

歴史的背景は以上の通りなので、次回のエントリでは1707年の合同から1999年のスコットランド議会再開までの話をしましょう。

Saturday 14 January 2012

あと1000日?

Copyright © 2012 PA


1月8日、BBCのインタビューでデビッド・キャメロン英首相(写真左)はスコットランド独立をめぐり自説を展開しました。曰く、宙ぶらりん状態の独立問題はスコットランド経済の先行きを不透明にし、スコットランドに対する投資活動を鈍らせるため、経済的に悪影響を与える。

スコットランド人自身が、独立をめぐる住民投票がいつになるのか、投票がどのような問いの形式になるのか、そして誰の責任でそれが行われるのか、あまりよくわかっていない。これはとても不公平なことです。……したがって近いうちに我々英政府が法的な状況を明確にし、「それではこれこれこういう公平かつ明確なやり方でこの問題を解決しましょう」と提案する必要があるでしょう。

と発言しました。このキャメロン発言に対して、スコットランド政府のアレックス・サモンド首相(写真右)は「スコットランドの民主主義に対する介入である」と批判し、独立をめぐる住民投票はあくまでスコットランド人の問題であり、いつどのように投票を行うのかはスコットランド人が決めることであると述べました。

キャメロン英首相はスコットランド独立に反対であり、独立をめぐる住民投票の開催自体については賛成ですが、それを英政府の主導のもと公平かつ明確な方法で早急に行うべきだと主張しています。一方、サモンド首相は、英政府は住民投票の開催について口をはさむべきではない、住民投票はスコットランド政府の責任で行い、英政府はそれを妨げることはできないという考えのようです。

このやりとりの背景には政治的駆け引きがあります。スコットランドでは2011年5月の選挙でスコットランド国民党(Scottish National Party = SNP)が過半数以上の議席を獲得し、第一党に躍り出ました。SNPの党公約はスコットランドの独立をめぐる住民投票を開催し独立を目指すことですから、SNPとしては、2011年5月の選挙結果はスコットランド国民が独立のための住民 投票開催を望んでいる、という解釈が可能になります。

ところが実際は、SNPが選挙では勝ったものの、実際に独立を望んでいるスコットランド人の割合は現在約3割強で、SNPへの支持=独立賛成、というわけではないようです。キャメロン首相が住民投票の早期開催を狙う理由がここにあります。現状では独立への支持はそれほど高くなく、住民投票が早ければ独立賛成派が支持を広げる前に、独立問題に決着をつけることができます。いっぽうサモンド首相としては、住民投票開催までにできるだけ時間稼ぎをし、その間にあらゆる手段を用いて独立への支持を広げることが狙いとなるでしょう。

英政府は当初、2012年1月から18ヵ月以内の住民投票の開催を意図していましたが、サモンド首相は2014年の秋を開催の時期とすると発表しました。2014年は独立派には非常に意味のある年です。中世、スコットランドはイングランドの支配下にあったのですが、13世紀末~14世紀の初めに対イングランド抵抗・独立運動がたかまり、スコットランドは1314年のバノックバーンの戦いでイングランド軍を撃破しました。バノックバーンの戦いは1320年のスコットランド独立につながる非常に重要な戦いとされており、サモンド首相はその700年周年となる2014年を独立を問う住民投票の時期に選んだわけです。

サモンド首相の狙い通り2014年の秋に住民投票が開催されれば、スコットランド人の歴史的選択まであと約1000日残されたことになります。

Copyright © 2012 Scotsman

Friday 13 January 2012

はじめに

Copyright © 2012 Scotsman


2012年がはじまった途端、スコットランド独立をめぐる議論が大きく動き始めました。このブログでは、日本での報道からは伝わりにくい独立問題の政治・歴史的背景や両国政治家の駆け引き、さらに独立問題をめぐり揺れ動くスコットランド人の心情などを、できるかぎりわかりやすく伝えていきたいと思います。